9月24日その2「死にたい人は死ぬしかない。無責任に生きろとか言うな。生きろとか言う人は、ちゃんと助けろ。」

9月24日火曜日。時刻は午後11時前。

さっきの文章、面白かったよね。

あの文章で今日は満足して、もう寝ようかと思ったけど、何かまだ、俺の中に溜まっているものがあるから、今から吐き出していく。

心。

「心って何?」っていうのを、今日のレンタル彼女を利用してから、考えている。

心。

まあ、今日のレンタル彼女を利用する前も、以前から、このブログは、「心とは何か」をメインに据えて、僕が色々思っているのだけれど。

今日のレンタル彼女を利用して、また、僕の心の中の「心とは何か」という問いが、「アップデート」された感じ。

心ってほんま、何なのだろう。

自分の心と僕は、今後、どう上手く付き合っていけばいいのだろう。

どうすれば、僕の心が末永く、「満たされて」いくのであろう。

「いい思い出」を作ることが、大切だ。

「いい思い出」があるから、僕はまだ、生きようと思える。

「いい思い出」が僕の過去にあったから・いい思い出が僕の心に燦然と輝いていてくれるから、僕はまだ、生きようと思える。

振り返ればすぐそこに、「死」があるから。

振り返ればすぐそこに、「絶望」があるから。

美しい思い出で、僕はまだ何とか、死なないでいる。

美しい思い出があったから、僕はまだ何とか、生きることに「希望」を見いだしている。

いつだって、「死」なんだ。

以前からのこのブログ内で書いているけど、僕はそれほど、「死」を悲観していない。

しょうがないんだ、「死にたい」と思うことは。

そういう状況にいる者しか、それは分からない。

死にたい状況にある人は、『誰も助けてくれない』から。

「誰か」がいれば、死にたい人は死なないよ。

希望を教えてくれる人が身近にいれば、死にたい人は死のうとは思わないよ。

「見せかけの希望」を、死にたい人に送らないで欲しい。

何にも知らないくせして。

口だけ言って、全く手を差し伸べてくれないくせに。

泣いているのに。

泣き続けているのに。

助けてくれない。

会いに来てくれない。

「生きろ」とか、無責任に言う人たちは。

そんなん、「死ね」と言っているのに変りがない。

「生きろ」とか無責任に言う人がいる存在が、誰かの存在を『殺している』ことに、無責任に生きろとか言う人は知らない。

だから僕は、死にたいと思っている人に、生きろとは言わない。

僕は、救えないから。

僕は、死にたいと思っている人の相手をしてやれないから。

僕もまた、もがき、あがき、苦しんでいる途中だから。

僕は、僕を救うことで、かなり、精一杯なのだから。

誰かを救う余裕は、僕にはない。

誰かに生きろと言って、誰かを生かせる余力は、僕にはない。

だから、死ぬしかない。

死にたい人は、死ぬしかない。

死んで死んで死んで死んで死んで。

何度も「死を重ねる」ことで、死とは何か・生とは何かを、死にたい人自身で考え、そして死にたい人自身で、どうしていくかを「決断」していくしかない。

「生きろ」とか言う奴は、ムカつく。

「生きろ」とか無責任に言って、救ってくれない奴は、とてもムカつく。

遠い。

「生きろ」という奴と、実際に死にたい人は、めちゃくちゃ遠い。

その距離が、「絶望」なのに。

その距離こそが、「死」なのに。

「希望」が遠くにあっては、それは「希望」とは呼べない。

希望とは、「距離」なのだ。

希望とは、「実存」なのだ。

遠くの方からいくら生きろ生きろと言っても、それは何も響かない。

それじゃあ、ひとりずつ、死にたい人を、抱きしめてやれよ。

それこそが、「希望」なのに。

それこそが、「愛」なのに。

その「生きろ」は、誰に言っているのか。

その「生きろ」は、それは、自分自身に言っているにすぎない。

自分を愛するために、無責任に他人に生きろと言っているだけだ。

誰も救えていない。

むしろ、傷ついている。

中途半端な愛は、愛とは呼べない。

中途半端ない愛は、「裏切り」だ。

お前だけ、救われやがって。

お前だけ、「死にたい」から逃れやがって。

死にたい人は、死ねばいい。

それが、「救い」なのだから。

僕はそれを、「否定」しない。

僕は、誰かの死にたいという気持ちを、どうこう言う「権利」はない。

孤独な人はひとりひとり、「決断」していくしかない。

どっちでも、いいんだ。

死のうが、生きようが。

絶望にまみれた人は、生も死も、それほど、『差がない』。(犬飼ユウって、このフレーズ好きだね。←ww)

生も死も超えたところで、絶望にまみれた人たちは佇んでいる。

その人たちにどうこう、言う権利はない。

絶望にまみれた人たちは各々、決めていくしかない。もしくは、解答するのを、「延長する」しかない。

絶望にまみれた人たちが、逃げれるとしたら、『無』、なんだ。

生も死もないところで。

自分を限りなく失くして。

自分を限りなく停止して。

自分の心を、限りなく閉ざして。

「自分を止めて」

『自分の生きている時間を止めて』。

今生きている「時間」に任せるのではなく、遠いどこかの「時間」に、自分を預けて。

僕たちとは、時間と空間から成り立っている。(←www。いつものwww)

時間は誰にも変えれない。

変えられないから、過ぎるのを、待つしかない。

永遠に続くような絶望な時間が終わりなく存在しているなら、自分を失くして・自分を無にして、永遠が終わるまで果てしなく終わりなく、ただひたすら、待つしかない。

クッソ長い。

だからこその絶望。

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とまあ、こんな感じですかな。

何を書いていたのだっけ。

今日、レンタル彼女を利用して、その女の子があまりのも『太陽』みたいな存在だったから、俺の心の「暗い部分」が、どうしても出てきた。

おもしれええ。

俺の心も面白いし、俺の心を引き出してくれる、彼女の存在もまた、おもしれえ。

やっぱ、出会いって、面白いな。

やっぱ、出会うことでしか、僕は僕を、知れないな。

楽しい。

明るい人に出会うことが、楽しい。

暗い人に会っても、僕にとっては、あまり意味がないな。

暗い人は、明るい人に会うことが、『必要』なんだな。

求めていることをこうやって、求めていくしか、「希望」はないんだな。

すごく、当たり前のことだけど、僕はだいぶ、気づくのが遅かった。

まあ、これでいいけど。

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