100日後に死ぬワニとかの全体的な感想(今さら?←ww)。
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7月27日月曜日。時刻は午後6時。
100日後に死ぬワニ語る前に、今日の自分について。
俺はいるぜ俺はいるぜ。←ww
・・・。
やっぱり「月曜日」は好きです。
もしくは、仕事休みから仕事ありへの曜日移り(日曜日から月曜日)は嫌いにはなれないです。
例え疲れは休みの日より増すとしても。
うん。
今日仕事していて感じたのは、「生きている他人」と同じ空間で時を過ごすのは、自分をどこか「安心」させるということにどこか安心感を感じることだ。
うん。←ww
久々の仕事だったから、いつもの退屈な仕事も新鮮に感じられた。
これがまた毎日続くようだったらつまんねえ、早く辞めたいと思うとこだが、こうして久しぶりに行って、他人(仕事同僚)と共に時と空間を共有することは、悪くはないなと。
そしてまた、自分がその職場の中で一定の「役割」を持っていることにも、僕を安心させていった。
今は当たり前にこなしているが、これもまた3~4年とこの仕事をやり続けたからだろう(と言っても大した仕事ではないが、そう思えるのも仕事を覚えたからと言える)。
今の仕事は悪くはない。(特にめちゃめちゃ良いとも言えないが)
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ちょっと話逸れて。
昨日感じて、今日顕在化出来た事は、休みの日は僕は『4等分』して時間を過ごした方が、生きやすいのではと思った。
どういうことか。
休みの日って、どんなに充実した時間の有効活用をしても、どこか僕は満足できなかったり、もっと出来たかなあと思ったり。
それで昨日思ったのが、休みの日を「4分割」することで、今の休みの日の過ごし方をより「鮮明に・明瞭に」出来るのではと思った。
大体の時間をこう分ける。
A 朝9~12時。 B 12時~午後3時。 C 午後3~6時。 D 午後6~9時。
これが一日の中で、僕が使える時間。(大体10時過ぎには寝ようとしている。また大体8時過ぎ頃休みの日は起きるし、もっと遅い場合もある。)
この4つの区分けの内、一つの区分けの時間の中で半分を頑張る。
大体一つの区分けが3時間なので、1時間半、自分がやりたいと思ったことをする。
後の1時間半は休む。(僕は異常なる頭痛持ちなので、人より多くの休みが必要。)
そうすると、休みの日の一日、どう頑張っても、1時間半×4=6時間しか出来ない。
逆に言えば、6時間自分のやりたいことをやったら、それでもう十分ではない?と思う。
例えば土曜の場合、Aで部屋片づけとトレーニングに行く。 Bでご飯と大幅な休憩とプール。 Cで買い出しと休憩と軽い散歩 Dで部活といった感じ。
そうして振り分けると、ちゃんと一日充実して過ごしているなと。
先週の「4連休」、割とちゃんとやりたいことやって過ごした。
そうしても、やりたいことやっても、それほど「進展」ないというか、やったとしても「成果」ってちょっとだなって思った。
一日にやれることって、ちょっとだなって改めて思った。
そのちょっとを日々こなしていくことが、唯一の進展だなと思った。
よく、何か一流になるには一日「10時間」やらなきゃいけないということを若い時聞いて、そして結局僕は何にもやらなかったしやれなかった。
そもそも僕の一日に使える時間は「6時間」しかない。←ww
だから、これからは、そのちょっとずつを積み重ねていこうと思う。
こう冷静に振り返ることが出来たのも、部屋やパソコン内の情報を色々「整理」したからこそ思えたからだし、またそう整理することが最近ようやく出来たのも、整理に時間を割けるようになるほどの、心の充実というか、何だろうね、おそらく筋トレと部活という二つの精神安定材料が揃ったからだと思う。
まず身体(≒身体性)。
そして心(≒コミュニケーション性)。
それを満たすことで、僕の場合、余裕が生まれてきた。(他にも色々な材料が今の僕に積み重なったことで、今の僕のある程度の心の余裕がある。)
まあ、何よりもこうして、このブログに自分の思ったことを書くことで、思考の整理が出来た事が一番大きいと思うけれど。
アウトプットの偉大さというか、自分を綴ることの美しさというか・・・。
そんな感じです。
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話変わって。
夏休みの旅行について。
これ、今日確認したんだけど、あんまり期間長くないことに気づいた。←ww
というか、別に今、それほど自分の旅行の必要性を感じてないと言えば感じてないんだけど。(ある程度自分の整理が出来てきて、今の日常が悪くはない)
まあ、だぶん行くけど。
予定としては2日。伸びたら3日。
主な行き先としては広島と鳥取。行けたら松山(おそらく行けない)。
これを予定している。
それで、薄い軽い「ノートPC」が欲しいなあと。(今持っているのは古い重たいノートPC)
ただ、半年に一回行くか行かないかのための旅行のために新しいノートPCは変えなくて、・・・、と思っている。
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そんな感じ。
最後にワニ。
書くの面倒くさくなってきた。←ww
手短に言うと、もったいないよなと思った。
途中まではすごいなと思ったけど、やはり最後ので台無しになったよなと。
あの作品で感じるのは、やっぱり作品というのはその作家の「人間性」が出てしまうよなあと。(悪い意味ではない。でも、こう書くと悪くなっちゃうか。←ww)
あの作品をある意味、冷静に見れて無かった作者の弱さというか・・・。
やっぱり作品は作品で「独立」させないといけないんだよね。
作品(物語)は他のアウトプットと、大いなる差がある。
作品はあくまで、作品で独立させないといけない(同じこと2回目。←ww)
例えば絵師とかがツイッターに絵をあげて、それは多くの人がいいねするじゃん。
だけどその絵師がツイッターで何か呟いても、フォロワーは別にあんまりいいねしないじゃん。
あれは絵師には、ツイッター上では絵しか求めてなくて。
その人の人間性は求めてなくて、絵とう作品(物語)を求めている。
作品と作り手は分けなければいけない。
だから、作品のことを冷静に思うならば、100日後のああいうことはやらないと思うけど。
悪い意味で、だいぶ流されてしまったというか、作品の在り方をあまり自分の中で固めないままいい作品を生み出してしまった感じ。
作品としてはすごいいいんだよ。
ただ作品は、作品として終わらせないといけない。
「区切り」というのが大切だと思う。
また、ある意味作品に対して「無視」が大切だと思う。
たぶん100日後のあの流れも、作者としては作品を思ってやってしまったと思うけど。
僕が思うに、あれはやはり「編集者的立ち位置」の人がいなかったから、ああいう流れになってしまったのではないかと思う。(漫画や本の編集者的な)
そういう編集者的立場の人が、その作品を冷静に扱うことが出来る。
つまり作者はある意味背負いすぎた。(たぶん編集的立ち位置の人がおらず、自ら企画とかにも加わってしまった?)
そういう意味で、編集的立ち位置というか、その作品を丁寧に扱い、また意見してくれる人が傍にいるってとても大事だよね。(そういう編集が時に暴走することも多くあると思うけど。)
作者はおそらく、その作品を作ることでだいぶ頭がぱんぱんになってしまっているから、たぶん心の余裕があまりないと思う。
そういう状況で、作品の立ち位置を冷静に見れないまま、作品をアウトプット(作品外に排出)してしまった感じ。
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とまあ、色々言ったけれど、結果としてあの作品は多くの人に読まれ、またある程度本としても売れたのだから、だいぶ成功したから、僕が意見することはないのだけれど。←ww
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それでもまあ、僕が思うのは、「もったいなかった」だよね、うん。
だって、途中まであんなに愛されて、終わってあんなに見放されてしまう作品って、もったいないでしょ。
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そんな感じです。←ww
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さらに話それて追記。
月曜に少年ジャンプないと、何かやっぱつまんないわ。
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