「生きているという証明」
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8月8日日曜日。時刻は午後3時。
「生きているという証明について」。
基本、僕が日々考えているのは生とは何かであったり、何のために生きてるかであったりする。
それで、自分の今の生の価値観もこのブログ内で幾度も述べているし、また結局今現在、こうして生きている私たち僕たちは、色々な差、それは貧富の差であったり、病気持ちの差であったり、友達の数の差であったり、色々他人とは違っているけれど、「生きている」ということに関しては、今生きている人は等しく生きていて、凄いなというか、僕たちの生ってたったそれだけだよなと思う。
ただ今、こうして今も僕たちは生きている。
そこに差はないというか、生は生だけというか・・・。
ただ、その生きているは皆変わらないのだけれど、その「自分が生きている」のをどうやって証明するか、もしくは確認するか。
そこに深く関わってくるのが、「他者」であり「社会」であると思う。
つまり、自分が生きていることを証明してくれるのが他人であり社会であり、だからこそ他人に認められる、社会に認められることが唯一僕たちの生を確認できる。
だから社会に認められるとか他人に認められるそれイコール生きているということになる。
つまり、他人に認められないと、生きているのに生きていない、ある意味最悪というか、生きることにおいて一番の肯定が出来ていない、つまり自分を完全否定されていることになる。
だからある意味、承認欲求というのは生きるか死ぬかの問題に関わってくるのではと思う。
自分が本当に生きているかを確認するために、他人に認められたい。
それは狂っているというより、社会的生き物の僕たちにとって宿命とも言えることなのかもしれない。
だからこそ、どういう形で自分が社会や他人に認められるか、その「認められ方の模索」をすることが重要なのではないかと思う。
誰に、どのような形で認められたいか。
それを自分自身真に理解することが、自分理解にも繋がるし、また社会理解・他者理解にも繋がる。
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まあ、そういうことが分からなくなったら、一度社会や他者をすべて絶って、つまり社会的である自分を一度捨て去って、楽になることも必要なのだけれど。
「社会」から外れる、離れることが、意外と自分の生きるを見つめ直すことが出来るというか、社会という枠から外れることでその社会を俯瞰して見れる。
その社会というのも、何か固定的なもので括られているわけではない。
基本的に社会とは、無数の括りから成っているものだから。
その分かりやすいものとして、「会社」があるのだと思う。
会社で働くと、労働基準法などあるが、基本社長や株主というのが絶対法であり、上に立つ人のルールによって一つの会社は成立している。
そうした一つのルールによって括られたグループが大量にまた括られているのが社会であり、ある意味玉石混交というか、A地方のB会社は自分にとって天国のようであっても、C地方のD会社は自分にとって地獄であったりする。
同じ社会という括りにあるもののなかでも、すごく差があったり、また日本という括り、日本という社会の括りにすら囚われる必要もない。
社会から一度離れることで自分が入っていた社会を外側から知り、また違う社会(or国)も他にあることを知る。
ある意味そこそこ、私たちはその社会を選択することが出来る。(まあ、人によって差はあるが。それでも日本に生まれただけでだいぶ選択の範囲は広い。)
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そんな感じだ。←ww
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